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その御利益はあらたかで、冥々(めいめい)のうちに守護が加えられている。近ごろ、突厥の葉議可汗の子の肆葉議可汗がその部落の力を傾け、その軍隊を率いて伽藍を急襲し珍宝を奪おうとして、ここを去ること遠からざる所で軍を駐め野営した。その夜、毘沙門天が、「汝はどのような力があり、伽藍を破壊しようとするのか」と言って、長い戟で胸から背へ突き通す夢を見た。可汗は驚いて目がさめ、甚だ心を痛めた。そこで家来たちに夢を見た咎(とがめ)の徴(しるし)をはなし使を馳らせ僧徒たちに頼み、懴悔し謝罪を申し述べさせようとしたが、その運命もまだ届かないうちにはや命を殞(おと)し死没してしまった[注?]。
この納縛僧伽藍は先の王が建てたもので(先王の由緒は不明)、堂宇と仏像が珍宝で飾られていたが、記述中の毘沙門天像は明らかに三宝(仏・法・僧)を守る軍神として機能している。元来四方を守る護方神・四天王の北方守護神として成立した毘沙門天は、インドでは武装した姿では表されず、武神としての特色を持ちあわせていない。しかし、中央アジアの昆沙門天は北方から押し寄せる異民族より仏教世界を譲る役割が増大し、武装する軍神として成長していったのであろう。また、ここでは特に寺の財宝の護る役割が強調され、昆沙門天の財宝神としての機能も顕著である。東アジア、特に日本においても後世毘沙門天は七福神の一つに数えられるほど財宝神の神格が強くなる。もともと昆沙門天の財宝神的特色はその出自であるインドのクペーラ神に由来すると考えられるが、バルフの毘沙門天像は財宝神と武神が不可分な関係にある点が注目される。そして、この納縛僧伽藍の毘沙門天像は、夢の中の話であるが、中国や日本の昆沙門天像がよく所持している(三叉)戟を使用して夷秋を撃退しているため、東アジアに伝わった昆沙門天像の一般的な姿がすでにできあがっているようである。
さて、それでは先程見てきたヒンドゥークシュ山頂の昆沙門天像のサイノ神のイメージはバルフの昆沙門天像ではどのように反映しているのであるうか。私は、実はこの毘沙門天像の武神的財宝神的機能も元はサイノ神のイメージに求められると考えている。その点は『大唐西域記』の記述から読み取れる。玄奘が天山南路の仏教国クチャ(屈支)からペダル峠を越えバルフに至る道程で見聞したソグドやトカラの国々は、当時異民族の突厥の支配をうけ仏教を篤く信奉

 

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?達身寺(兵庫県)の兜毘沙門天

 

 

 

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